天才外科医とその助手の少女が通されたのは、不機嫌そうにも見える男性の肖像画が威圧的に見下ろす部屋だった。 壁一面には、分厚い書物の収められた棚。その造り付けの棚は元より、置かれた調度品は年代を思わせるもので、 由緒正しい血統の者がこの屋敷の主でるということを、それらは雄弁に語っている。 その部屋の奥にある、天井に届くほどの大きな窓辺に置かれている、磨き上げられた大きなテーブルに、男性はついていた。 屋敷の主、サー・ヘンリー・セントクレア氏だった。 「我がセントクレア家にようこそ。ヘンリー・セントクレアだ」 「初めまして」天才外科医は、差し出された手を握り返す。「ドクター・ブラック・ジャックです。コレは助手のピノコ」 「ピノコれす。初めまして」 礼儀正しく頭を下げる少女を見て、肖像画によく似た風貌の彼は、厳しい顔を、僅かに緩めた。 恐らく、もともと、表現が苦手な一族なのだろう。 「利発そうな、お嬢さんさんだ」 セントクレア氏は、少女を眺めながら、震える声で言った。「…私の宝も、丁度彼女ぐらいでね…可哀想に…天が早く帰って来いと、 急かすのだ…」 くしゃりと、セントクレア氏の表情が歪んだ。 苦渋に満ちた表情を両手で覆い、先程よりもしゃがれた声で、氏は言葉を搾り出す。 「…私の妻も…神に愛されすぎて、早々に天に召されてしまった…そして、次はあの子だ…ドクター…あの子をこの地に留める事ができれば、 私は金など惜しみはしない!」 「やってみましょう」 BJが答えると同時に、背後に控えていた執事が、大判の茶色い書類封筒を差し出してきた。 封筒の表には、某有名な大学病院の名が印刷されている。 中身は、レントゲン、CT,MRI、脳波…といったあらゆる検査結果から、医師の医学的所見を書いた書類、紹介状、 果ては医師の手書きのカルテなど、一般人が決して見ることのできない医療関係書類までが、揃っていた。 それは、さすが金持ちと言ったところか。 椅子に座り、封筒に中身に没頭する天才外科医の傍らで、少女は依頼人である氏を見ていた。 主に国家に功績があった者に対し、君主からが授与される”サー”というナイトの称号を持つ男。 広い肩幅に強靭さを感じさせるが、今は、家族をしに奪われる恐怖に涙する、哀れな男にすぎなかった。 「…信じて、下さい…」 言葉と共に、ピンク色のハンカチが、氏の涙を拭った。 その柔らかな布の感触に、氏は思わず顔をあげた。 顔をあげ、ハンカチを持つ少女を見詰めていた。 「信じて、下さい」少女はもう一度、言った。「命を、信じて、下さい。あなたの思いは、天になど負けない。諦めなければ、 奇跡は近づきます」 少女の言葉が、凜と響く。 氏は縋るように、少女の大地の色をした大きな瞳を、見詰めていた。 それは、それは、とてもこの幼い少女が語るにしては、壮大な言葉だった。 だがそれは、子ども特有の嘘めいたハッタリにも聞こえなかった。 何故なら、少女の表情が……その言葉が、経験したものからだという、自信と慈くしみに満ちていたからだ。 そんな時の少女の雰囲気は、少女が主張する”18歳”という年齢のものに、近い気もする。 言葉の使い方も、いつもの舌ったらずには違いなかったが、それでも説得力という力を生み出す迫力さえ感じられた。 それは、それは、少女が経験し、勝ち得てきたという、現実を語っているに過ぎなかったのかもしれない。 だが。 二人の様子を横目で見ながら、天才外科医は静かに思う。 現実世界に置いて、奇跡と言う事象はほとんど起こらない。 回復を願い、力尽きる人間を、BJは星の数ほど見てきた。 信じれば必ず起こるほど、奇跡は安くはないことを、BJは嫌というほど、思い知らされている。 だが、BJも知っていることは、ある。 確かに、奇跡は、存在する、という事を。 ■■■ 屋敷の中で、一番長く日の当たる場所が、氏の一人息子である、チャールズ・セントクレアの部屋だった。 明るい室内には、ありとあらゆる玩具が壁を、床を彩り、玩具箱の中に入り込んだよう。 天蓋つきベッドに横たわる、幼い少年は、まるで御伽噺に出てくる王子のようだった。 巻き毛の金髪、大きな空色の瞳。 肌の色は白を通り越して青ざめ、まるで生気がない。だが、息子は幼い少年らしからぬ利発そうな笑顔で、 起き上がり頭を下げた。 「初めまして、ドクター」息子は、言った。「チャーリー・セントクレアです。ぼくのために、ありがとうございます」 ハキハキとした物言いだった。その発音の良さから、少年の育ちのよさを伺える。 「ブラック・ジャックだ」 「ピノコなのよさ」 ぶっきらぼうに答える天才外科医に代わり、少女は満面の笑みを称えてから、 ウェストバックから文庫本サイズの黒い機器を取り出した。 小さな手でその機器を開いた。 二つ折れになるそれは、片面が液晶で、もう片面がキーボードになっていた。 少女は素早くキーボードを叩いてみせると、その機器の内臓スピーカーから流暢な英語が流れだす。 その内容は、自分は天才外科医の助手で日本にきたのだ、とか、イギリスは何度か来ているが、この町は初めてだとか、 自分は日本人で日本語は分かるが、英語は苦手なので、この機器を使用しているのだ、という事を説明する。 不思議な機器からの言葉に、少年は物珍しそうに聞き入りながらも、その瞳をキラキラと輝かせていた。 「…ピノコ、なんだそれは」 考えてみれば、見たことがない機器だった。 当然、天才外科医が買い与えたものではない。 「こえ?」 少女は、手にする文庫本サイズの機器を、優しく撫でながら「こえは、電子和英辞書なのよさ。 文章をキーボードで打ち込むと、喋ってくえゆから、便利だよって、ロクターが」 「…なんだと?」 思いがけない人物の名前に、天才外科医の眉毛がぴくりとあがる。「キリコに貰ったのか?」 「買ってもらったの」少女は言った。「○ゃぱネット高○のテレビショッピングを見てて、便利そうっだねって、 ロクターが買ってくえたのよさ」 「ほう、一緒にテレビを………」 無邪気に、うん、と頷く少女とは対照的に、天才外科医の周りには黒雲が立ちこめ、時折稲光が放電するのは、 気のせいであろうか。 「あはは…!面白いですね!」 「そうれしょ?」 黒雲を吹き飛ばすように、少年は笑い声をあげた。それは、本当に綺麗な声だったため、天才外科医は我に返り、 少年の傍らにたって、診察を始める旨を伝えた。 少女は、少し離れて、その様子を見守った。 天才外科医の診察は口数が多くはない。それは、診察を通し、治療方法を考え、組み立てているからに他ならなかった。 だから、そんな思考を妨げないようにするのが、少女の気遣いと助手としての姿勢であった。 不意にドアを拳で叩く音が、小さく響く。 それが入室を意味するノックであることを少女が気づいたのは、執事が優雅な仕草でドアを開けたからだ。 「へえ、噂どおり綺麗な子なんだな」 入室してきた青年は、ぐるりと室内を見回し、最後に少女に視線を落とすと、少女の前で膝を折る。 「君が、天才外科医様の助手の女の子かい。噂どおり、カワイイな」 「え…!」 青年は、少年と同じ見事に明るい金髪の巻き毛で、瞳は少し濃いマリンブルーと言える美しい色彩だった。 端正な顔立ちの青年の言葉を、少女は正確に分かって訳ではないが、時折聞こえた「プリティ」や「ビューティフル」という 単語に、知らずしらず頬を桃色に染め上げる。 青年は、それは綺麗な微笑をかけると、少女の小さな手をとり、そして、騎士が仕える姫君に忠誠を誓うように、 その肌色の手の甲に唇を寄せた。 「私は、レイモンド・セントクレア」青年は告げる。「ピノコさんですね。美しい貴方のお名前は聞いております」 「あ、どうもれす」 ぺこりと、戸惑いながら少女は頭を下げた。 正直、こんな扱いをされたことのないので、どうしたらいいか分からない。 救いを求めるように、少女は天才外科医の方を仰ぎ見て、サッと顔を青ざめさせた。 そして、慌ててレイモンドから手を振りほどくと、数歩後ずさり、あははと笑って、 「ピノコ、おひめさまみたいで、こまっちゃったよのさ」 天才外科医の傍まで来て、おどけてみせる。 彼の天才外科医は、小さくため息を吐くと、隠し持っていたメスを再度仕舞い込んだのだった。
天使の翔ぶ町2